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ブラジル音楽系シンガーKeiko Yoshimuraの演奏ツアー、旅の記録

祖母の命日

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9月7日は、ブラジル帝国初代皇帝ペドロ1世が1822年にポルトガルからの独立を宣言した、独立記念日でした。そしてサンパウロで生まれた日系ブラジル2世の祖母、幸子の命日も同じ9月7日。ブラジル名はテレーザでした。


先週Kissa Bossa Uminakoライブの翌日、熊本では祖母の法要が行われていました。”ブラジルの影響”というテーマでしたが、そのときギターの大西孝明さんが歌ってくれた、移民のことを想って作られたオリジナル曲Sementesを聴くと自然に涙が出てしまうのは、そんな祖母との思い出や、ブラジルへの想いが溢れてきてしまうからかもしれません。


私が初めてブラジルに行ったのは2017年7月。私がツアーに行く直前の6月に祖母は結核になってしまい、ツアーから帰国した約一か月後に亡くなりました。


ですが私の人生初のブラジルツアーは、偶然にも祖母のブラジル名と同じ名前を持つ通訳Teresaさんが、導いてくれたのです。亡くなる直前で、もはや偶然とは思えない奇跡のタイミングでした。


そしてTeresaさんとその家族が、どこに住んでいるかも分からなかった私のブラジルの家族を探し当ててくれ、会わせてくれたのです!

 


そもそもブラジルに行くきっかけになったのは、その頃FM府中の番組パーソナリティを毎週やっていたことでした。ゲストに招いた山崎陽子さん、トレジャーガーデンさんを通じて日系ブラジル人の通訳Teresaさんに出会いました。


そしてTeresaさんと妹のEmikoさんの紹介で、日系ブラジル人によるサンパウロの日本祭Festival do Japanに出演するお話を頂き、ブラジルに連れて行ってもらうことになったのです。


日本祭(Festival do Japan)とは、世界最大規模の日系ブラジル人による日本文化紹介イベントで、約20万人が来場、昨年は移民110周年で眞子さまも記念式典に参加するため訪れたお祭です。


私は、日本祭に出演が決まってから、色々調べているうちに、自分が日系ブラジル人の子孫だということに初めて気づいたのです!


それまでは、祖母がサンパウロで生まれたという事実だけ知っていましたが、111年前、曾祖父母が初めに笠戸丸でブラジルに渡った日系1世だったことに、全く気付きませんでした。

 


先祖がブラジルに移住したのは、当時コーヒー産業が盛んになってきたことや、奴隷制度が廃止になった歴史が大きく関係しています。


サンパウロで生まれた祖母は、いつもコーヒー畑の中を歩いて学校に通い、週末は黒人のお手伝いさん達が朝まで歌って踊っていたそうです。祖母は9歳で日本に帰国。その後、戦争が始まったのでブラジルに戻らず熊本に住み、母や私は熊本で生まれたのです。


ブラジルに親戚がいることは小さな頃から祖母から聞いていたので、ブラジルに行くなら是非会いたいとは思っていましたが、全くどこにいるのか手がかりが掴めませんでした。


ですがTeresaの家族にはお医者様や弁護士、経営者など、優秀な方が揃っていたので、私の曾祖父母の名前が移民資料として掲載されていたところから捜索し、ブラジルの家族の携帯番号を見つけてくれたのです!


それは日本に帰る3日前。急に朝から電話がありました。私のブラジルの家族からでした!なんと祖母の姉フジコさんがまだ生きていて、その家族が会ってくれるというのです!


日本祭で出会った個人メディアを運営しているスーザンが、”家族を探しています”という私の動画を配信してくれました。Facebookでその私の動画を見てくれたそうなのです。それで最初は半信半疑でしたが、会って見ようという気持ちになってくれたみたいでした。


ちょうどOFFだったので、すぐに会う約束をして出発しました。有り難いことに、テレーザの妹のEmikoさんが同行してくれました。


バスで約8時間。サンパウロ中心よりさらに内陸へと進みました。マリリアという町を目指していました。

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その時、バスの車窓から見た広大な赤い大地、地平線に沈む太陽、木々のシルエットの風景は一生忘れられません。初めて、ブラジルに来たという実感が湧いた瞬間でした。

 


到着したときは辺りは真っ暗。星が綺麗な夜。ですが私はついに、ブラジルの親戚に会うことができました!

バス停に祖母の姪のアツコさん姉妹が迎えに来てくれたのです。遥か遠い道のりでしたが、こんな地球の裏側に自分の親戚がいるなんて感動的でした。


それからさらに車を走らせ、シュハスコレストランで食事をしたあと、祖母の姉のフジコさんにも会えました。なんと92歳。開口一番、赤い服を着ていた私に向かって”あんたのその服よかね〜”と熊本弁が!

 

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とても不思議でした。私は元々、服飾デザイナーになりたくて上京しましたが、ブラジルの家族はみんな服飾デザイナーだったり、洋服が作れる方ばかりだったのです。


そして、Lineを通じて、少しだけ祖母の幸子とフジコさんはビデオで会話できました!私は、きっとこのために、ブラジル音楽と、コーヒーの香りに強く惹かれて、ここに来たのではないかと感じました。


なんだか自分の意思ではない気がしていたけど、祖母を故郷ブラジルに導くため、家族に再会させてあげるためだったのかもしれない。そして祖母はブラジルの独立記念日に、故郷ブラジルに帰ったのではないか、と思ってしまったのです。


ブラジルには現在、約150万人の日系人が住み、世界最大の日系人社会を形成しています。ブラジルを世界最大のコーヒー大国に導き、政治や経済を支えているのは、実は日系の人々だということは、あまり知られてはいません。


だからこそ私が、苦難の道を辿って未開の地に挑んだ日系移民の歴史や日系の人々の功績を、少しでも日本に伝えなければならないような気がします。


長文になりましたが、いつも笑顔で美味しいご飯を作ってくれた亡き祖母と、お世話になったTeresa Family、Fujiko Familyに感謝の気持ちを込めて。Muito obrigada🌸